甦る、村橋久成
北に夢を追ったサムライは、何を思い流浪の人となったのか。
開拓使に身を置き、開拓使麦酒醸造所(現在のサッポロビール)設立に力を尽くした官吏、村橋久成。しかし明治14年(1881)に開拓使を辞して以降、明治25年(1892)に神戸の路上で出処不明の客死者として現れるまでの後半生は謎に満ちたものでした。
中西出版は、村橋久成の生涯を描いた小説『残響』を著した田中和夫氏との縁で、「北海道久成会」の活動に協力しています。
※2022年7月より「北海道久成会」は独立したホームページを立ちあげました。
最新情報やより詳細な内容は新ホームページ(https://hisanarikai.com/)にてご確認ください。
(新HP立ち上げに伴い本ページ内の「北海道久成会の活動」の項を削除しました)
北海道産業の礎を築いた薩摩人
平成17年(2005)9月23日、北海道知事公館前庭において、開拓使ビールの産みの親として知られる村橋久成(むらはし・ひさなり)の胸像の除幕式が執り行われた。
一般にはあまり知られていないが、村橋の業績は麦酒醸造所(サッポロビールの前身)建設にとどまらず、琴似屯田兵村・七重勧業試験場・葡萄酒醸造所・製糸所・鶏卵孵化場・仮博物場・牧羊場などを創設し、北海道産業の基礎を築くという特筆すべきものだった。
昭和57年(1982)、作家・田中和夫氏による小説『残響』の北海道新聞文学賞受賞をきっかけに、村橋久成の名は再び人々の知るところとなり、それに触発された日本芸術院会員の彫刻家・中村晋也氏による胸像「残響」が誕生した。
平成11年(1999)に北海道久成会が発足し、地道な活動が続いていたが、平成15年(2003)7月の高橋はるみ知事の道政執行方針演説の中に村橋久成の功績が取り上げられたことを契機に、翌年“胸像「残響」札幌建立期成会”が結成され、前述の除幕式へと結実した。
二つの「残響」に導かれ、世紀を超えて再び歴史に登場した村橋久成の生涯と、現在に至るまでの道程をこのコーナーで辿ってみたい。
目次
- 小説『残響』
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小説『残響』の文学賞受賞が、 村橋が再登場する契機となった。
- 胸像「残響」
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彫刻家・中村晋也氏が魂を込めた胸像「残響」が北の大地に甦った。
- 薩摩藩派遣英国留学生
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村橋22歳の時、薩摩藩は密かに留学生と使節を英国に送り込んだ。
- 軍監 村橋直衛
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吉村昭『夜明けの雷鳴』に描かれた村橋は高松凌雲と対峙する。
- 開拓使麦酒醸造所
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「麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる」
- 放浪、そして死
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開拓使廃止前年、村橋は突然辞表を出し行脚放浪の旅へ出る。
- 村橋久成年譜
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作家・田中和夫氏の手による村橋久成53年の軌跡。
- 薩摩藩英国留学生記念館
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留学生たちが英国へと旅立った「黎明の地」に建つ。