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放浪、そして死

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 明治5年から10ヶ年計画で始まった北海道開拓は、計画期限満了と共に廃止が予定されていた開拓使の継続を主張した黒田の願いもかなわず、廃止が決定した。もともと苦しい財政状況は、西南戦争で膨大な戦費を費やしたことによりさらに悪化していた。
 廃止にあたり明治13年11月、政府は殖産興業政策のもと設立した工場などの官有物の民間への払い下げを公示した。翌14年、事業の継続を図りたかった黒田は、破格の安値で同郷の部下を通じ同郷の五代友厚らに払い下げようとした。このもくろみを「薩摩閥の官財癒着」として新聞にすっぱ抜かれ、一大スキャンダルとなった。
 村橋が突然辞表を出し開拓使を去ったのは、この事件の直前の明治14年5月のことであった。
村橋の憤りと失望は想像に難くない。燃えるような情熱を注いで築き上げてきた数々の事業と施設を、維新で成り上がった政治家や商人、そして官僚が食い物にしている現実に絶望したことだろう。
 同僚や部下達の慰留を振り切って、村橋は行脚放浪の旅へ出た。その後村橋の消息は途絶える。

死亡記事 11年後の明治25(1892)年10月12日、神戸又新(ゆうしん)日報に死亡広告が掲載された。
「9月25日、神戸市郊外の路上で疾病のため倒れていたのを発見して救護をしていたが、同月28日に死亡した。心当たりの者は申し出でよ」
 発見された時、着衣は木綿シャツ1枚と白木綿三尺帯1本だけのほとんど裸の状態で、施療院に収容されたが「鹿児島県士族、村橋久成」とだけ言い残して息絶えたということであった。
 翌日、村橋の壮絶な死を知った黒田清隆や湯地定基、佐藤秀顕、堀基、永山武四郎、調所(ずしょ)広丈、ら元開拓使の旧友たちによって葬儀が営まれ、青山霊園に墓が建てられた。

 残されている葬儀時の「香典料人名帳」の一部

人名帳

(筆頭には、自筆で伯爵黒田清隆(逓信大臣)と夫人瀧子、続いて森岡昌純(日本郵船社長)、山内堤雲(鹿児島県知事)、湯地定基(貴族院議員)、陸奥宗光(外務大臣)、堀基(前北海道炭礦鉄道社長)、佐藤秀顕(逓信大臣秘書官)、長谷部辰連(貴族院議員)、小牧昌業(奈良県知事)、調所広丈(鳥取県知事)、鈴木大亮(逓信次官)、永山武四郎(屯田司令官)、仁礼景範(海軍大臣)・・・・・・・続く)

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