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開拓使麦酒醸造所

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「麦酒醸造所は北海道に建設すべき」という稟議書を提出

 村橋は箱館戦争後、北海道開拓使に出仕を命ぜられ、東京官園担当として東京出張所在勤となった。やがて函館郊外の七重にある、東京官園直轄の七重開墾場で勧業試験場づくりを始める。更に屯田兵村建設という新たな任務が加わり、琴似を兵村地に定め兵屋建設のための地割りをする。
 琴似兵村の建設が進み、七重開墾場の全地測量もひとまず目処の付いた明治8(1875)年2月、村橋は東京出張所に呼び戻された。当時東京官園内に麦酒醸造所を建設する計画が持ち上がり、その建設・事業責任者に任命されるためである。
 醸造人は、ドイツ駐在の青木公使から推挙された中川清兵衛である。ドイツでビールの醸造技術を習得してきた中川と、留学先のイギリスでビールを知り、そして近代産業のあり方を体験してきた村橋の運命的な出会いであった。このとき中川は28歳、村橋は33歳であった。
 村橋は中川に指示をし建設プランを練っていったが、「醸造所の建設地を東京官園とし、試験栽培をして成功の目処がたってから北海道に移す」という開拓使の考えに疑問を持った。
 明治8年12月、麦酒醸造所の建設予定地の変更を村橋は上申した。

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大意
「さきごろよりビール製造のため、醸造人の中川清兵衛を雇い入れ、製造場所や醸造器械などを調べ、別紙の通り図面もでき、建設費も見積もった。ただし、これは試験のため東京に建設するというための見積もりである。しかし、北海道には建設用の木材も豊富であり、気候もビール醸造にふさわしく、低温を得るために必要な氷雪もまた十分に有るので、最初から実地へ建設したほうが移設・再建の出費を省き、非常に経済的であると考える。ついては来春から北海道へ建設することといたしたい。建設地については、水利や運送、気温などビール醸造に適応する地域があるのを知っている。どうか評議のうえ、至急、指令を下されるように」

 

 村橋の提言は認められた。開拓使の最高決定機関である上局の決議事項を変更することは異例なことであった。日本のビール産業の生みの親として、村橋の果たした最大の功績がこの建設予定地を札幌に変更させたことであると言われている。

 もし、醸造所が東京に建設されていたなら、開拓使ビールは数年のうちに跡形もなく消滅していたか、製法を根本から変えなければならなくなったに違いないと思われるからだ。いずれにせよ、日本のビール産業の成立を大きく遅らせることになったはずである。

開拓使札幌麦酒醸造所開業式

 村橋は麦酒醸造にだけ係わっていたわけではない。同じ頃、葡萄酒醸造所と製糸所建設の指令も受けている。葡萄を東京官園で試植したのち札幌へ移したのも、養蚕を授産の主要な柱に奨励したのも村橋であった。
 外国への輸出を構想しながら勧業、勧農に主眼をおくという村橋を、東京出張所の上局が評価せざるを得ないのは当然であった。
 明治9(1876)年5月、村橋に率いられた麦酒醸造所、葡萄酒醸造所建設担当の13名、製糸所器械据え付け担当の14名、大麦栽培担当の清国人農夫9名を乗せた開拓使官用船玄武丸は、横浜港から一路小樽をめざし北上した。

 村橋の計画では札幌本庁の正面から東へ伸びる雁木通り沿いの南側一帯を確保し、製糸所、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所の順に配置を予定した。製糸所の近くには養蚕所をおき、麦酒醸造所の予定地内にはフシコサッポロ川の水源がある。これは茨戸で石狩川に合流し諸物の搬出入に便利であり、茨戸から小樽までも近い。製品の冷蔵保存や輸送用の氷は近くの豊平川から容易に得ることができるという立地である。
 秋の麦の収穫期前までの完成をめざして6月に着工された醸造所の建物は、8月中にほぼ完成した。
 ちょうどこの頃、天皇特命の巡視代覧として太政大臣・三条実美、参議の山県有朋、伊藤博文、寺島宗則、元老院幹事の陸奥宗光が視察に訪れた。

 醸造器械の据え付けを終えて麦酒醸造所が竣工したのは9月8日で、開業式直前の21日には最初の麦が仕込まれた。「醸造着手」の稟議無しの見切り発車であった。
 9月23日、製糸所において麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、製糸所の合同開業式が挙行された。この後それぞれの場所で記念撮影したものが右の写真である。
 麦酒醸造所の横に積み上げられたビール樽に白い塗料で大きく文字が書かれていた。
 「麦とホップを製すればビイルとゆふ酒になる」
 誰が書かせたのかは分からないが、立派なビールの宣伝コピーとなっている。

ビール醸造の開始-開拓使麦酒は美味であった。

 醸造所の完成と最初の仕込みを見届け、村橋が東京出張所に戻ったのが11月だった。これからの村橋の重要な仕事は札幌から届く製品の受入れと販売の体制づくりであるが、次々と問題が起こる。
 中川清兵衛らの待遇も含めた雇用継続問題、ドイツから取り寄せた酵母の不良による醸造の遅れ、別ルートでの買い入れの交渉、またビール瓶の確保や輸送時の品質保持の体制等である。
 同じ時期、世情は西日本を中心に騒然としていた。熊本での神風連の騒乱に始まり、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱、東京・思案橋事件など政府の施策に反対する不平士族の反乱が起こっていた。
 そんな落ち着かない状況の中、村橋の奮闘は続く。
 開拓使札幌麦酒醸造所が初めてビールの製造に成功したのは、明治10(1877)年の5月中旬と思われる。2月に西郷隆盛が鹿児島で兵を挙げた後、動員されていた屯田大隊が九州で激戦を展開していた頃である。
 最初に東京に届けられたビールは、内圧により途中でコルクが抜け、中身が噴き出して瓶の中のビールが一滴も残っていなかったという「事件」もあった。

 肝心のビールの味はどうだったのか、外国人のいくつかの評価の声が伝えられている。
 「ビールの色は鮮麗で光輝いているが、やがて赤味を帯び、若干の時間がたつと泡が徐々に上昇する。苦みもよいし、なによりも2回にわたって覚える芳香はもっとも愉快である」(ペンハロー)
 「札幌で醸造された冷製ビールは実に良好で、完全と言える。横浜醸造所のビールよりはるかに良くなっている」(コルセルト)
 いよいよ商品化の時である。最初の開拓使ビールは9月に販売された。10月にはラベルが完成した。勧業課の職員たちの力作である。

 「冷製札幌麦酒」の認知度が次第に上がる中、醸造所のそばに広大なホップ園が設けられた。輸送にも改善がなされ、明治13年醸造所の増築により生産量は2倍となった。
 
明治14年、東京・上野で2回目の内国勧業博覧会が開催され、初出品の「冷製札幌麦酒」は有功賞を受賞した。
 ビール生産が軌道に乗り始めたさなか、村橋は突然開拓使に辞表を提出した。

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