4-89115-141-2若林 滋 著
定価:¥1,905+税
ISBN4-89115-141-2  C0021
四六判/402頁/並製
[2005年9月刊行]

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概 要

筆者は、「屯田兵制度は有効にして成功した制度であった」との従来の評価を肯定しながらも、「それは屯田兵と家族の犠牲と献身を抜きにしてはあり得なかった」と述べている。これこそ筆者の視座であり、本書に一貫した「目」であろう。われわれ屯田兵子孫として、ようやく納得のいく「屯田兵の本」を得ることができた。<北海道屯田兵倶楽部名誉会長 小林 博明>(「発刊に寄せて」 より)

目 次

発刊に寄せて
まえがき

第一編 屯田兵開拓を検証する
プロローグ 隆盛の故郷を訪ねて
第一章 初期兵村の真実
第二章 あばら家兵屋と検束移民
第三章 北部戦線異状あり
第四章 防衛優先の陰で
第五章 空知開拓の風雪
第六章 軍都と稲作の礎石
第七章 後期屯田の悲哀
第二編 北海道屯田兵制概史
第一章 屯田兵誕生の背景
第二章 屯田兵の創設
第三章 屯田兵制の実施
第四章 屯田兵制の展開
第五章 成果と終焉

屯田兵関連略年表
あとがき

本文より

第一編 屯田兵開拓を検証する(文中敬称を省略します)

プロローグ 隆盛の故郷を訪ねて
-屯田兵設置を提唱-

士族救済と北辺防衛

 真冬日の札幌から菜の花の咲く鹿児島に飛んだ。平成十六年(二〇〇四)二月。
 朝九時半に千歳を発ち、羽田経由で鹿児島についたのは午後一時過ぎだった。最北・北海道~最南端・鹿児島間は直行便でも二時間余りかかる。飛行機でさえ遠いと感じる距離だ。まして船足の遅い明治時代である。九州の港を出て各所に寄港し、小樽や室蘭まで十日前後かかった。鹿児島屯田兵と家族たちの遙かな旅。船中で、死亡や出産の悲喜があったと伝えられる。
 三月開業の九州新幹線に試乗、合わせて北海道屯田兵創設を提案した西郷隆盛の故郷を見たい、というのが鹿児島行きの目的だった。空港からバスで宿舎に移動中、公園や道端に立つ巨大な西郷像を幾つも見た。南州神社、私学校跡、そして明治十年(一八七七)の西南戦争の戦跡・城山。西郷終焉の地。何処にも西郷を慕う鹿児島人の思いが滲み出ていた。
 桜島が白煙を吐き、錦江湾の向こうに赤くかすんでいる。西郷は朝な夕なこの雄大な自然を見、この空気を吸って成長したのだろう。西郷の人格の源泉に触れた気がして、妙に納得する。
 明治四年(一八七一)秋、西郷の腹心・陸軍少将桐野利秋は北海道を視察した。その時、西郷から北辺の防衛について調べて来てくれ、と頼まれ、開拓使が置かれた札幌周辺を視察し、多くの人に会った。そしてロシア南下の実情を知り、北海道防衛が急務であると西郷に報告した。
西郷は報告を基に翌五年、北海道に屯田兵を配備して対露防衛と開拓に当たらせる、屯田兵構想を打ち上げ、札幌に鎮台(師団)を置き自ら統帥したい、と主張した。(北海道庁編「新撰北海道史・第三巻」)
 「新撰北海道史」は、
「鹿児島藩は夙(つと)に屯田制を慣行しており、西郷等はその出身として今北海道の実情を詳知するに及び、特に斯る施設を緊要視したことであると考へられる」
としている。
 当時、開拓使にあって首都札幌の建設を指揮した判官松本十郎の証言がある。(「同」)
「明治四年の廃藩置県に当たり、西郷は士族らの失業を心配し、彼らを北海道の開拓と防衛に当たらせようと考えていた。それは鹿児島の屯田制度に範をとったものだ」
 鹿児島・薩摩藩士は城下士(じょうかし)、外城士(とじょうし)などに分かれる。城下士は城下に居住して城勤めをする。外城士は半農半士の「郷士」で、日常は農作業にいそしみ、いざの場合は武器を持って城に駆けつける役目。まさに屯田兵だ。
 薩摩では鹿児島の「鶴丸城」を内城として、領内に百十三の外城を設けて侵略に備えていた。太平洋戦争末期に特攻基地となった、県南の知覧町にも外城が設けられていた。今も残る武家屋敷群は国の「重要保存地区」に指定され、「特攻平和会館」と共に見学者が絶えない。
 百十三の外城と鹿児島北部の険しい山塊。城と天然の要害が相まって薩摩の防備は固かった。その昔、「関が原」のあと西軍に与した薩摩が徳川家康勢と戦わずして島津の名跡と領地を保全できたのは、この二つが立ちはだかったお蔭もあるといわれる。
 西郷が北海道に屯田兵を置くと考えたのは、こうした歴史を持つ薩摩出身者として、ごく自然な発想だったと理解できた。西郷の提案が実現するまでには日時を要したが、北海道屯田兵の父とも呼ばれる。
 西郷が北海道に特に関心を持ったのには事情がある。それは明治二年(一八六九)創設の開拓使には薩摩出身者が多く、西郷の腹心が幹部を占めていたことだ。明治八年でみると、長官黒田清隆、中判官堀基、幹事調所広丈、安田定則、永山盛弘など七等出仕以上の幹部二十六名中薩摩出身が十一名を数え、開拓使は薩摩閥といわれていた。(松下芳男「屯田兵制史」五月書房)
 屯田兵の募集に応じて津軽海峡を渡り、北の大地を拓いてそこに骨を埋めた鹿児島出身者は百十二名(戸)、家族とも五百人を上回る。最初の入植は明治十八年(一八八五)の江別と野幌。計四十六名(戸)が石狩平野の原生林に開拓の鍬をおろす。その後、二十年代にかけて札幌・新琴似や空知の滝川などに続々入植する 。全員が鹿児島県士族だった。この時期の募集地域は、初期の東北に対して九州・中国地方が中心だった。明治七年(一八七四)の佐賀の乱、九年の萩の乱、十年の西南戦争。陸軍省と屯田兵本部は士族が反乱を起こした地域から、積極的に屯田兵を募集した。
 初期の募集は維新の際、朝敵として薩長土肥の西軍(官軍)に抵抗した旧会津、仙台藩士などが対象だった。困窮士族救済、北辺防衛、北海道開拓の大義名分の下、維新の敗兵や反乱士族など、権力側にとって厄介な者たちを未開の北海道に「隔離」する政策だったとさえいわれる。
長州などと組んで維新をなし遂げ、わが国の近代化に功績を残した西郷、大久保利通ら薩摩のリーダーたちは郷里には特別の利益をもたらさなかった、とよくいわれる。明るい青空の下に延々と広がるシラス大地。サツマイモがよく採れ、焼酎ブームで脚光を浴びている。新幹線駅のキヨスクにも、焼酎と薩摩揚げが並んでいた。
 が、鹿児島の街は大藩の城下町にしては人通りが少なく、うら寂しい空気が淀んでいるように見えた。九州七県で鹿児島は一番広いが、人口は福岡、熊本に続く三番目の百八十万人弱。工業出荷額は一位の福岡に大きく差をつけられた二番目。県民所得は全国四十七都道府県中四十六位、九州では最下位だ。(平成十二年度、経済社会総合研究所調べ)
 雄藩の栄華は歴史資料を展示している「尚古集成館」、藩主の別邸「磯屋敷」にわずかに痕跡を留めるばかりだ。江戸末期まで蓄積した大藩の財力も人材も、維新の大業に丸ごとつぎ込んでしまったせいなのか。
 九州新幹線(博多-鹿児島)は博多からの延長ではなく、終点鹿児島から途中の八代まで逆向きに部分開業した。陸の孤島解消をという地元民の熱い誘致運動と、出身政治家の奔走で新幹線初の逆向きを実現した。久々に見せた薩摩の政治力。観光開発など鹿児島再生への思いを乗せて、「つばめ」は最南端から北に向かって出発した。これが函館、札幌につながり、観光客が新幹線で行き来するのはいつだろうか。
 早春の陽射しがまぶしい鹿児島を発ち、直行便で千歳へ。白い大地は季節風が吹き、まだ冬のただ中で凍えていた。空港ビルを一歩出ると、束の間の南国の旅に緩んだ体がブルッとした。明治のころ、この地にやって来た南国の屯田兵と家族たちは、防寒設備のない粗末な兵屋と粗食に耐えて、よく生き抜いたものだとしみじみ思ったことだった。(本文より)

プロフィール

若林 滋(わかばやし しげる)
1934年北海道生まれ。士別高校、東北大卒。読売新聞記者、関連会社役員を経て現在、北海道屯田兵制度研究会代表、北海道屯田倶楽部理事、北海道史研究協議会会員。

上記内容は本書刊行時のものです。