978-4-89115-212-3若林 滋 著
定価:¥1,800+税
ISBN978-4-89115-212-3  C0021
四六判/396頁/上製
[2010年6月刊行]

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概 要

もし、天皇と鈴木貫太郎の二人がいなければ
日本は、どうなっていたのか?

わが国近現代史の一断面を北海道からの視点で描く一冊。
激動の近現代史に札幌農学校二期生の子どもらの意外な働きが秘められていた。
いま、感動の秘話が明らかに! (帯文より)

目 次

発刊に寄せて  作家  田中 和夫

プロローグ

第一部 足立元太郎と農学校の仲間たち
 第一章 クラークの教育方針
    ―「紳士たれ」キリスト教を基本として―
 第二章 独立教会を創設
    ―産みの苦しみの末に―
 第三章 農学校の風雪と卒業生たち
    ―札幌独立キリスト教会を支えて―

第二部 昭和天皇と共に―「足立たか」と「鈴木貫太郎」―
 第四章 父の膝下で
    ―子煩悩な足立元太郎―
 第五章 たか皇居へ
    ―皇孫さまの母親代わり―
 第六章 別れと出会い
    ―養育掛辞任、鈴木と結婚―
 第七章 侍従長の妻
    ―夫婦で天皇に仕えるえにし―
 第八章 クーデター前夜
    ―急進青年将校、右翼の策謀―
 第九章 二月二六日の惨劇
    ―「昭和維新」「尊皇・討奸」―
 第十章 終戦総理誕生
    ―「曲げて頼む」と天皇―
 第十一章 わが屍を越えてゆけ
    ―ひたすら天皇の意思を体して―
 第十二章 滅亡か降伏か
    ―ポツダム宣言黙殺、天皇の最終決断―
 第十三章 敗戦の後に
    ―首相辞職、郷里関宿へ―

エピローグ
    ―昭和から平成へ―
あとがき

主な参考文献、資料

本文より

発刊に寄せて
田中 和夫

 戦争末期、私たち一家は新潟にいた。四年という短期間だったが、住んでいた町は信越本線、羽越本線、磐越西線の結節点で機関庫や鉄道工場、電話交換所、鉄道管理部などの鉄道施設がある新津だった。昭和二十年三月、硫黄島が落ち、B29による本土空襲が本格化し、その月の十日の東京大空襲で江東地区が全滅した。東京の深川国民学校から新津へ学童集団疎開で来て私と同級となった者のうち、中学校受験で東京へ戻った十五人全員が空襲で焼け死んだ。五月の東京大空襲では宮城が全焼し、都区内の大半が焦土となった。新津の鉄道工場には、焼けただれた貨車や骨組みだけとなった客車が連日、無残な姿をさらしながら送り込まれてきた。
 敗戦は必至だった。戦争を引き起こした東条内閣が総辞職し、代わった小磯内閣もまた総辞職し、そして四月には鈴木内閣が成立した。首相の鈴木貫太郎は昭和天皇の侍従長時代、二・二六事件で反乱軍の襲撃を受け重傷を負った人物である。六月には沖縄が占領され、八月には新津から四十五キロ隔てた長岡市が焼夷弾攻撃を受け、市内の八割が焼け野原になった。その日から幾日も経たずに広島、そして長崎に原子爆弾が投下された。
 八月十五日――、毎朝七時から七時半にかけて低空飛行で新津駅周辺の偵察にくる米軍艦載機の姿が見えなかった。その日の正午きっかり、前日から予告されていた重大放送がラジオから流れてきた。「現人神」である天皇陛下直々の、終戦詔書の放送だった。雑音と難解な表現が入り混じって、よく理解できなかったが戦争が終わったらしいことはわかった。朝から米軍艦載機が姿を見せない理由もわかった。ポツダム宣言受諾による無条件降伏だったのだ。
 そのとき私は旧制中学一年生。神風到来を真剣に信じていたのだが、神風はついに吹かなかった。
 畏敬する若林滋さんが、このたび「昭和天皇の親代わり―鈴木貫太郎とたか夫人―」を刊行されることになった。鈴木貫太郎は日露戦争に第二艦隊駆逐隊司令として参加。のちに海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍兵学校長などを歴任。政界上層部の信用も厚く、予備役に編入ののち侍従長を務めた。昭和天皇の信頼も厚く、天皇に請われて戦時最後の首相として内閣を組織し、無条件降伏による終戦を実現させたことで知られている。日本近現代史には格別の関心があるので早速、読ませていただいた。「屯田学校~北海道教育の礎」、「北海魂の人・小林博明の半生」、「新たなる北へ――会津屯田兵の物語」、「勤労学徒たちの太平洋戦争」に続くもので、これまでの著作と同様、精細な調査と文献を骨組みにして書き下ろした三百九十六頁もの大冊である。いつもながらの的確な歴史観と、研ぎ澄まされた鋭い筆力には驚嘆するのみである。
 第一部の「足立元太郎と農学校の仲間たち」は、クラークの教育方針から始まる。鈴木貫太郎の妻たかの父は札幌農学校の二期生で、内村鑑三や新渡戸稲造、宮部金吾、広井勇、町村金弥らと同級の足立元太郎。クラークの遺訓に従って洗礼を受け、のちに内村鑑三らと共に札幌独立基督教会を創設したキリスト信徒である。足立は札幌農学校卒業と同時に開拓使物産局博物課勤務となるが、学業の余暇に蚕の生理・病理など養蚕を自習していたことから養蚕・生糸行政に従事する。このころ常子と結婚、常子もキリスト信徒入りし、長女たかが生まれる。
 専門知識と人柄を高く買われた足立は、その後横浜生糸検査所技官を命ぜられて札幌から横浜に移る。足立は子供の教育には熱心で、長女のたかを東京府立女子高等師範学校保母科に進学させた。明治三十七年、同校を卒業したたかは、同校付属幼稚園の保母として勤めはじめた。
 このころ宮内省では、四歳になった皇孫(のちの昭和天皇)の養育に幼児保育の専門家を置くことにし、元東大総長、文部大臣の菊地大麓に人選を依頼していた。青山御所内の皇孫御殿に住み込み、皇孫たちの身の回りの世話や躾、教育までを受け持つ母親代わりの養育掛である。ケンブリッジ大学卒業の菊池が推薦したのは、二十一歳の足立たかだった。菊池の孫が同校付属幼稚園に通園していて、園児の父母の間で足立たかの評判がいいことを聞き、推薦したのである。たかの保育、教育のすばらしさが高く評価されたのだが、そこにはたかが父から受け継いだキリスト教信仰があったに違いない。こうしてたかは明治三十八年から大正四年までの十年間、昭和天皇十四歳のときまで養育掛を務める。その十年間は昭和天皇の人格形成に大きな影響を与えたはずである。
 養育掛を辞任したたかは、進歩的な思想を持つ鈴木貫太郎と結婚する。昭和二十年八月、昭和天皇の意を受けた鈴木は生命の危険を冒して終戦・和平の大事業を実現させた。この二人がいなければ日本はどうなっていたか。悲惨な本土決戦に突入し、日本は徹底的に破壊されただろう。
 「わが国近現代史の一断面を北海道からの視点で描きたい」、という若林さんのねらいは、じゅうぶんに成就した。若林さんに、大きな拍手を送りたい。(作家)

プロフィール

若林 滋(わかばやし しげる)
1934年北海道生まれ。士別高校、東北大卒。読売新聞記者、関連会社役員を経て現在、北海道屯田兵制度研究会代表、北海道屯田倶楽部理事、北海道史研究協議会会員。

上記内容は本書刊行時のものです。